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□第36話




風がひんやりと肌を掠めた。
透は少し小さく、低めの岩を見つけてそこに腰掛けていた。

『私はお前を愛している。』

何度もその言葉が頭の中を反復していた。
キルアにそう言われたとき、正直どう返していいのか分からなかった。あんなこと言われるとは思わなかったし、そんな風に想われていることもちっとも知らなかった。冗談を言っているのかと一瞬考えもしたけれど、その時のキルアの表情はとてもそんな顔には見えず、本当に真剣だった。

何も言うことが出来ずに困っていると、丁度馬車が止まり、兵が休憩を取ることを知らせに来てくれた。そのことに透がホッとしてしまったのは事実だ。
キルアはこれからのことを話し合ったりと、いくつか仕事があるらしく、透になるべく一行から離れないようにと言いつけて、バルやサーベルたちの元へ行ってしまった。
休憩をするために馬車を止めたこの場所は草原だった。透は少しだけ、でもちゃんと自分の位置が確認できるくらいの場所まで一行と距離を置いた。

この国は広い。この世界はとても広い。草原は見渡す限りどこまでも草原で、少し寒気を帯びた風が草花を揺らしていた。辺り一面の緑は何故かずっと眺めていたくなるほど鮮やかで、緑にも青にも、時には黄色にも見え、心落ち着かせるものだった。
座っている岩はゴツゴツしていて少し痛かったけれど、ひんやりとしていたので肌をくっつけていたくなる。透はボーっとして座りながら、そこから足を放り投げるかのようにプラプラさせた。

「どうしよう。」

透はポツリとそう呟いた。キルアのあの言葉が頭から離れないでいる。

―――なんて言おう・・・。

何か答えなくてはいけないと思ってはいるものの、何を言えばいいのかさっぱり思い浮かばなかった。そもそも、キルアが自分に向けてくれている感情、それ自体が透にはまだ経験の無いものなので、よく分からなかった。

―――嬉しい、とは思う。

キルアのような見目の良い、それでいて優しい人に『愛している』などと言われて嬉しくないはずはない。ただ、そういう感情自体が透にとって漠然としたものなのだ。
ずっと海と草原の境を見つめていた。それでも何も浮かばない。
透はピョンッと岩を飛び降り、すぐ下にあった背の高い草の中にそのまま仰向けに寝転がった。

気持ちが良い。透自身、ここに茂る草のように感じた。見えるのは海だけ。キラキラと光ながらゆっくり揺れている。時折、魚たちが泳ぐ影が見える。ここから見えるのだから、よほど大きな魚だろうか。海に向かって手を伸ばした。今にも届きそうな気がするのに実際にはかすりもしない。今、あの場所に触れられたら、と考える。きっと冷たくて柔らかいのだろうと思った。
透は手を下ろした。代わりに、胸の前で手を握り合わせ、静かに瞳を閉じた。静かに静かにどこからか音が鳴っていた。

ヒュゥと鳴る音。音と共に耳にふわりと感覚がよぎる。肌をくすぐる音。どこか鈍く、低く響く音。水の蠢く音。
どれも今まで、まともに聞いたことのなかったものだ。
全ての感覚が酷く鮮明だった。


カサリ。

耳元で音がして、透はビクリと体を震わせて目を開けた。

「姿が見えなかったのでお探ししました。」

ニッコリと、バルが顔を覗いていた。

「バルさん。」

透はすぐに体を起こし、頭に付いていた葉っぱをパッパと払った。

「あちらの方から見ると、ここは草の丈が高いので、トオル様の姿が見えないんです。」

そう言って、バルはまだ透の頭に付いていた残りの葉っぱを払った。

「ありがとう。・・・キルアさんたちとお話中じゃなかったの?」

「今終わった所です。・・・浮かない顔をしていますね。」

透は俯いた。そしてやはり今の自分はそんな顔をしているのだと思った。

「そう・・・かな・・・。」

「キルア様と何かありましたか?」

透は驚いて顔を上げた。

「キルア様も似たような顔をしていたので。」

明らかに「どうして分かるのか」と言いた気な透の様子にバルは小さく笑った。

「キルアさんも・・・。」

「・・・太陽妃様のことですか?」

「・・・それもあるけど・・・。」

透は先ほどのことをバルに話すことを躊躇った。相談してみたい気もする。徒でさえ、透がこの世界で話を聞いてもらえる人など数えるほどしか居ないのだ。けれど、キルアが真剣に伝えてくれたことだから、軽々しく人に話して良いものかとも思う。おまけにバルはキルアの部下に当たる。

―――上司の威厳とか、あるよね・・・。

透は小さくため息をついて、また俯いた。やっぱり話すのは止しておこうと思ったのだ。
バルは、再び俯く透を見て、直感した。いや、性格には自分の主の様子がおかしいところから既に予想はしていたのだが。恐らく、自分の主は透に自らの意思を伝えたのだろうと思った。

―――・・・ようやく自覚したんですね・・・。

少し嬉しく思った。主は確かに変化している。この目の前の少女に出会ってから少しずつ。それも良い方向にだ。自分の主であるキルア王子が今まで本当の意味で自分の感情など表に出したことは無い。全て、国のため、民のために押し殺していたようなものだった。幼い頃からそうやって生きてきたキルア王子には、それが無意識の内に身に付いていた。だから時折不安に思ったことがあった。この人は自らを表に出す術を知らないのではないか、と。

『この人は自分を犠牲にしている。』

そう思えて仕方なかった。その人が、変わろうとしているのだ。真に自分の求めるものを自覚したのだ。側近として、キルア王子を慕う者として、そして同じ道を歩んできた者として嬉しく思える。

「キルア王子に何を言われたのか存じませんが・・・。」

バルは透を宥めるようにゆっくり話し始めた。透は少しだけ顔を上げて耳を傾けた。

「キルア王子はトオル様を困らせたかったわけではないと思います。キルア様がどういった気持ちでトオル様にソレを言ったか、わたしには分かりません。でもそれは確かです。」

透は少し考え込んだ。確かに、そうかもしれない。けれど何か自分は反応を示さなくちゃいけないと思っている。だから、透はどうしても悩んでしまった。

「・・・あの方は本来お優しい方ですから、あまりトオル様がそんな顔ばかりしていらっしゃると、逆にキルア様が悩んでしまいますよ?」

そう言われて、透はバルの顔を見た。バルはニッコリと微笑んで見せた。

「・・・確かにそうかもね。」

透も少しだけ笑顔を見せた。

「別に、焦る必要はないんですよ。むしろ、正しい答えを出したいのなら焦らない方が良いとわたしは思います。答えが向こうからやってくる、ということもありますし。」

そう言って、バルは一行のある方を見た。

「ほら、いらっしゃいましたよ。あとは2人でお話を。」

そう言われて、バルの見ているのと同じ方向を見た。そこには少し曇りがちな表情をしたキルアが居た。

「では、失礼します。」

バルは透に一礼し、キルアの横を通るときにも軽く挨拶をしてその場を去った。

「・・・隣、いいか?」

「え。でも草まみれに・・・。」

透は慌てて手を左右に振った。

「いいんだ。」

構わず、キルアは透のすぐ隣に腰掛けた。

「服、汚れますよ?」

「気にしない。」

キルアは本当に気にする様子も無く、そのままゴロンと仰向けになった。空を、見上げる。

「・・・ここ、気持ちが良いな。」

風が頬をくすぐる。透もキルアのようにコロンと仰向けになった。

「こうしてると、ここが本当に自分の今まで過ごしてきた世界とは違うものなんだなって実感します。こんな風に海を見上げるなんて、考えもしなかった。」

「・・・私は空を見たことはないが、海とどう違うんだ?」

透は海を見上げながら、そこに懐かしい空を思い浮かべた。

「同じ青だけど、空はもっと色が薄いかな。こっちの世界でも海は朝や夕方になると赤やオレンジに染まるけど、空は色が薄い分、その色に染まりやすい・・・気がする。夜になると真っ暗になって、でも月と星が出ます。星は夜光魚みたいで、でも夜光魚のようには動かないけど・・・。月は満ち欠けするから、基本的には真ん丸だけど、その日によって形が変わって、キレイだったと思う。」

この世界に来るまで、透は月や星などまともに眺めたことなど無かった。あって当たり前のものだったのだから。だから本当は記憶は曖昧だった。けれど綺麗だったというイメージはぼんやりとある。地上に戻ったらきちんと見てみよう、と、透は思った。

「一度見てみたいな。」

サァー、と風が流れ、静かな時が過ぎる。
キルアはゆっくり、上半身を起こした。透も気づいて同じようにした。

「すまない。突然あんなことを言って。」

透は黙って首を横に振った。顔が段々と熱くなっていくのが分かった。

「・・・困っているのだろう。」

「・・・少し。」

キルアは透の様子を見て、少し苦い顔をした。

「すまない。本当に。お前にそんな顔をさせるためにああ言ったわけじゃないんだ。」

キルアは片手を軽く額に添えた。

「え・・・私どんな顔してるんですか?」

透は少し恥ずかしくなって顔に両手を当てた。先ほど、バルに指摘されたように今度はキルアにそう言われた。そんなに顔に出ているのかと、透は少し恥ずかしくなった。少し頬が赤くなる。

「とても困惑しています、って顔に書いてある。」

キルアは冗談交じりにそう言って、クスクスと笑って見せた。

「そんなっ。」

透はからかわれているように感じて頬を膨らませたが、小さく笑っているキルアにつられて自分も笑みを浮かべた。

「・・・そう、その顔が一番似合っている。」

キルアの右手がそっと透の左頬に添えられた。透は少し恥ずかしくなって顔を赤くする。触れられている左頬が妙に熱かった。そしてそこにはふわりと真綿のような感覚があった。

「わたしのことは嫌いか?」

そう聞かれ、透は当然首を横に振った。

「では、好きか?」

透はまた顔を曇らせた。キルアは慌ててすぐに「男としてではなくて良い。人として、だ。」と付け足した。

「それなら・・・。」

透は頷いた。安心したようなキルアの右手が透の頬から滑るように流れ、次に透の髪に触れた。そのしなやかで自然な動きに透はドキリとする。

「困っているのだろう?わたしの言ったことに。でもわたしは、無理に答えてくれとは言わない。ただ、わたしの気持ちは知っていて欲しかったんだ。」

キルアの右手の動きが止まった。おや、と透が思うと、今度はその手が透の左手の上にそっと添えられた。

「地上に行って・・・3日でここへ戻ると言っていたな?」

「はい。」

「こちらへ戻ってきたら・・・わたしの元で住まないか?」

「え・・・?」

「形だけでいい。わたしの元へ来てくれ。側室という形にする。そうすれば身分も上がるから、神官になれる。地上へきちんと帰るための道も開ける。正室ではないから、トオルがもし地上に帰ることになってもすぐに自由にしてやれる。不自由はさせない。望むなら、記憶を取り戻す助けになろう。母上のことも色々と調べることができる。」

「で、でも・・・。」

急にキルアの腕が伸びてきたかと思うと、透はその腕の中に抱きすくめられていた。一瞬にして温度が上がり、顔が熱いのが分かった。

「・・・一緒にいて欲しい。ただわたしが、傍にいて欲しいんだ。」

キルアの声が、耳元でふわりと響いている。

「少しの間だけでもいい。例えお前の気持ちがわたしに向かなくともかまわない。・・・わたしの傍に、居て欲しい・・・。」

トクリと心臓が鳴った。困惑してしまう。けれど、断る理由はなかった。

「・・・はい。」

気が付くとそう答えていた。
キルアがとても嬉しそうに微笑み、改めてもう一度透を強く抱きしめた。
緩やかな風が吹き、草と潮の匂いを運んだ。
以前、同じ申し出をされた時に何処からか現れた不安も、今は見当たらない。

ただ傍に居て欲しい、と、そう言ったその人の願いを叶えたい。

純粋にそう思った。









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